小笠原氏は甲斐源氏の一流です。その甲斐源氏は清和源氏の一流で源頼義の三男、新羅三郎義光を祖としています。
源平の内乱に戦功をたてた加賀美次郎遠光とその子である、小笠原氏の初世長清は、鎌倉将軍源頼朝から重く用いられ、「文治三年丁未十一月五日 頼朝卿挙げて弓馬師範となす。時に年二十六。命を承りて、弓始(ゆみはじめ)、奉射(ぶしゃ)、八的、丸物、笠懸、流鏑馬等の儀式を執行し、兼て犬追物これを権興す」と、二十六歳で頼朝の弓馬師範となり、弓馬等の儀式を執行したとされています。長清が住んだ甲斐国巨摩郡小笠原荘は、現在の南アルプス市にあたります。
室町時代に長清より七世後、小笠原流礼法中興の祖とされる貞宗は後醍醐天皇より「小笠原は日本武士の定式たるべし」との御手判、さらには家紋として「王」の字を賜りました。しかしながら「王」の字をそのまま用いることは 控え、それを象徴する三階菱を家紋としました。武門としては室町将軍足利尊氏に仕え戦功をあげました。また中国から渡来した清拙正澄大鑑禅師に帰依し、信州伊賀良に招いて開善寺を開基するに至ります。
さらに後世、「小笠原といえば礼法」といわれる基盤を作り上げたのが貞宗より四世後の長秀です。将軍足利義満の命により、今川氏頼・伊勢憲忠両氏と共に長秀は、供奉、食事、宮仕えの応対の仕方、書状の様式、蹴鞠の仕方など、武士の一般教養を目指したといわれる「三議一統」の編纂にあたりました。
戦乱期、長秀より八世後の長時は武田氏との合戦に敗れ、信濃の地を逐われますが、その子貞慶は小笠原再興に奔走し、深志(松本)城を回復します。「三議一統」以来加えられた今川・伊勢両家に伝わる故実をくみ入れ、小笠原流礼法の整序につとめ、まとめられた「小笠原礼書七冊」は、長時と貞慶の時代に戦国時代の戦乱のなかで研究されたことが貞慶より秀政に伝えられたものです。この伝書は、武家の質朴な礼の本義というべき性格を示しています。
江戸の世には、徳川譜代大名として秀政は信濃松本藩主となりますが、秀政は大阪夏の陣にて、嫡男忠脩とともに戦死します。その後、家督を継いだ忠真は、信濃国松本八万石、播磨国明石十万石に移封され、三代将軍徳川家光より豊前国小倉十五万石への国替を命じられます。また、剣客宮本武蔵や宮本伊織は忠真に長く仕えます。忠真は晩年、黄檗宗に帰依し、中国から渡来した僧、即非如一禅師を開山として現在の小倉北区にある広寿山福聚寺を創建しました。
この時代の小笠原流は幕府の公式の礼法であるためお止め流とされ、一子相伝のもと、一般に教授されることはありませんでした。しかし、小笠原流を「格式のある礼法」として学びたいという声が町人階級から高まったことにより、礼法の本質を理解していない人々によって、教授が行なわれ始めました。
この流れは明治期にも変わらず、そのまま作法教育として女学校などで教えられた結果、礼法が堅苦しいものであると言う誤解がつくられてしまったのです。
さらに、第二次大戦後、礼法教育を行うことが難しくなり、戦後の風潮の中で日本人が持っていたはずの「相手を大切にするこころ」が薄れ始めました。
先代小笠原忠統は、このような日本の状況を憂い、相手に対する「こころ」と、目に立たない自然な「かたち」があいまって礼法は成り立つということを、惣領家に伝わる教えをもとに自らが一子相伝の封印を解いて一般への教授を始め、生涯に渡って礼法の普及活動に努めました。
その志は、小笠原敬承斎に受け継がれ、現在に至っております。
小笠原長清公館跡
「南アルプス市の小笠原小学校校庭
にある石碑」
遠光・長清父子坐像画
「開善寺(福井県勝山市)所蔵」
小笠原伯爵邸
「新宿区河田町 旧小笠原長幹邸宅」
小笠原長幹
旧豊前小倉藩十五万石、小笠原惣領家三十二代当主。小笠原流礼法宗家。
元伯爵。小笠原長幹三男。東京大学文学部卒業。
長野県松本市立図書館長、相模原女子大教授などを歴任する。
小笠原惣領家に代々、守り伝えられてきた教えをもとに、一子相伝の封印を解き、門下の育成とともに、講演、執筆、テレビ出演等を通じて晩年まで礼法の普及に努める。
1996年没。