八月納涼歌舞伎

月曜日の午後、久しぶりに歌舞伎座へ伺いました。
大変お世話になっている方から八月納涼歌舞伎の千秋楽へお招きにあずかったのです。

IMG_3573拝見した演目は「東海道中膝栗毛」と「雨乞其角」。
東海道中膝栗毛では、スマートフォン、自撮り棒なども小道具に使用。
早替り、さらには宙乗りも拝見できました。
最後の天国の場面では、神無月で出雲へ神々が出かけているうえ、仏滅で仏様もいらっしゃらないということでイエス・キリストが登場して無事、皆が天に召されます。

歌舞伎にスマートフォン、イエス・キリストが登場するなどということ、昔ならば想像もできないことでしょう。
こうした点だけを見ると、あまりにも現代生活にあわせてしまい、文化の伝承はどこへいってしまうのだろうかと考える方がいらっしゃるかもしれません。
しかし、そうではないのです。
子鬼役で出演されていた市川右近さんは歩き方、踊りなどすべてに間があり、8歳とは思えないほどの落ち着きまでもが感じられました。
最も感激したことは、座っているときの手の表情。
美しく揃えて腿のうえに置かれた指は大人の方々に引けを取らず、一瞬たりとも動くことがなかったのです。

古来より続く芸の伝承はしっかりと受け継がれています。
基本が整えられているからこそ、現代に生きる人々にも感動を与えることができる。
日本の伝統文化を次世代へと受け継ぐために必要なお取り組みをなさっていることの素晴らしさを痛感いたしました。
続く「雨乞其角」は、雨乞いの句を詠むと、久しぶりに雨が降り、喜びのあまりに皆が踊りだすという楽しくもありながら風情のある舞台でした。

楽屋へご挨拶に伺った後、外に出てみると、まるで舞台にあわせて突然、雨が降っていた様子で、清々しい夕暮れの空を見ることができました。
これからは間を空けずに歌舞伎を拝見したいと思います。

臨書と伝書

書道の師と、久しぶりに様々なお話をする機会がありました。
王義之(中国東晋の政治家・書家)の楽毅論(三国時代魏の夏侯玄が戦国時代の将軍楽毅についてその王道にのっとった戦いぶりを説いた文章に)は、楷書体の完成された用筆の妙味があるといわれています。

その文字を眺めながら師はおっしゃいました。
「縦せんと欲せば横せんよ。横せんと欲せば縦せんよ。中国の書論にあることばですが、縦画はまず横にいれる。横画はまず縦にいれる。まさにこの書は起筆(書き始め)の用筆(筆づかい)に、この教えを忠実に行っている書です。この書を臨書(手本を見ながら字を書く)することには、深い意味があります。臨書をする前に、字の書き方の基本を身につける必要はあるけれど、臨書は単に字を学ぶだけでなく、その時代の背景やそこに生きた人々の思いを知ることができるのです。」

IMG_3523小笠原流礼法においても、伝書を学ぶ意義と同様のことです。
万葉仮名で記された伝書、現代語に記されたものを読めばよいのではないか、という考えもありますが、それではその時代に生きた人の思いを受け止めることに限りがあるのです。
臨書を通じて、書いた人がどのようなことばを用い、それをどのような書で表現したのか、ということを肌で感じることによって、見ているだけではわからない味わいをも楽しむことができる。
伝書も万葉仮名のままで読めば読むほど、新たな気づきや楽しみがあります。

古いものの魅力を失うことなく、先人の教えを現代に活かす大切さを改めて教えていただいた貴重な機会に感謝いたします。

一日体験教室

小笠原流礼法宗家本部直営教室において、はじめての一日体験教室を昨夜、実施いたしました。光栄なことに、定員を上回るお申し込みやお問い合わせを頂戴いたしましたが、教室のお席に限りがあることから、参加いただけなかった方々におかれましては、深くお詫び申しあげます。
ホームページのみの告知にもかかわらず、多くの方が興味を持ってくださることを改めて確認できた喜びもあって、一日体験教室の冒頭15分ほどは私からお話をいたしました。
写真は、教室開始前に担当してくださった師範と撮ったものです。

IMG_3540相手のこころを察し、控えめな気持ちで行動することこそが小笠原流礼法の基本。
すべての作法には理由がある。
どの時代においても、時・場所・状況に応じた自然な振る舞いが大切。

限られた時間でしたので、このような小笠原流礼法のこころとかたちを日常で活かす意義について簡単にお伝えいたしました。
今朝、皆様が最後まで積極的に参加くださったとの報告を受け、残暑の昨夜に素敵な一時をご一緒できましたことに感謝いたします。

本日は処暑。
まだ暑さが残るなか、台風の影響が本日から週末にかけて懸念されます。
皆様におかれましては、お怪我などなさいませんように気をつけてお過ごしくださいませ。

言動の変化

上司には「おはようございます」、部下には「おはよう」と挨拶をする。
伝えている内容は同じ、しかし相手の立場によって表現が変化するのはいかがなものなのか。
過日、お知り合いの方からこのような貴重なお話を拝聴することがありました。
その際、上司に会うときにだけネクタイをつけて日常はネクタイを用いないことにも通ずる、というご意見も伺うことができました。
こうした挨拶の口上や身嗜みの差は、他の人の目から見て、上辺だけの礼と捉えられても仕方がないように思います。

礼儀の本質は、相手の立場によらず、上の立場からも下の立場からも等しく相手のこころを大切に思うということ。
相手との関係によって言動の差が生まれることは、望ましくありません。

仁というは慈悲を専らとしてこころに情を先とす
義というは善悪をただし賞罰を明らかにす

お辞儀小笠原流の伝書には、仁と義に関して、このように記されています。
上司も部下も、互いに相手への思いやりを大切に、積極的にこころを動かす。
上の立場だからこそ正しい道を部下に示し、部下も道理に叶った行動をこころがける。

お盆休みも終わり、今日から平常のお仕事に戻る方も多いかと思います。
上から下、下から上、いずれも礼のこころを欠かすことなく、お互いに心地よい空間のなかで過ごすことができるように努めてみてはいかがでしょう。

1本の榊

神棚に供える榊は、毎月1日と15日の月に2回、新しいものに変えることが習わしです。
我が家でも、短い場合には1週間ほどしかもたない榊もあり、2週間を待たずして変えることも過去にはありました。

IMG_3500 (002)ところが、ある日を境にして変化が起きました。
2016年4月のブログに榊のことを記しているのですが、同年1月から我が家の神棚に供えている榊は今年の初め頃まで、枯れることがなかったのです。
毎日、お水を替えるたびに「ありがとうございます」とこころを込めて、一本一本の根元を洗っていましたが、今年の猛暑に榊も耐えられなかったでしょう。
2年8ヶ月が経過し、とうとう1本だけが残り、その他の榊は今月1日から供えているものです。

榊は、「木」と「神」からなる国字。
榊はツバキ科の常緑樹で、神様がいらっしゃる聖域と人間のいる場所の堺を示す木ということから「堺木」「境木」。
あるいは常に葉が栄えている木ということから「栄木」「繁木」、から転じて「榊」になったともいわれています。
いずれにしても榊は古くから依り代(神様が依りつくもの)として神事に用いられてきました。

生物に永遠の命がないことはわかっていますが、できるかぎりこの1本の榊の葉が枯れないことを願いつつ、新しい榊も大切に供えたいてまいりたいと思います。

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