かつお節

京都出張の折、以前から伺いたいと思って日本料理店へお招きにあずかりました。

お料理2品をいただいた後、削りたての3種類のかつお節が運ばれてきました。
「左が荒節、真中が本枯れ節、右が鮪節です。是非、それぞれの味を食べ比べてみてください」
とお店の方からの説明があり、左から順にいただきました。

かつお節生切、煮熟、焙乾まで、つまり燻す作業で終了すると荒節ができ、力強い香りがします。

荒節の状態から菌を人為的につけては天日干しをする作業を重ねると本枯れ節ができ、旨味や上品な香りが増します。

かつお節は切り口が松の木の年輪のようであるとのことから「松魚節」、また「勝男武士」とも記して武士の間でも縁起物として扱われていました。

室町時代には現在のかつお節に似たものはありましたが、まだ焙乾はなされておらず、江戸期から焙乾が始まったようです。
江戸時代、かつお節を船で輸送するさい、長い航海でカビが発生、それを落としても目的地到着後、保管している間にまたもやカビが発生。
しかし、それによって旨味が増し、魚の臭みも減ることがわかったのです。

ところで、鮪節は他の2種と比べて控えめで甘味が感じられました。
だしを取るとき、鮪節は主張し過ぎず、かつお節の味を引き立てる役割があるようです。

だしの奥深さに魅力されながら、最後には土鍋炊きのつやつや白米にたっぷりのかつお節をかけていただきました。
このたびを機に、かつお節について知識を深めたいと思います。

食事のさいの口元の動き

テレビ番組に出演することのある友人から、「食事のシーンでは特に気をつけていることがある」と聞いたことがあります。
具体的に注意している点は、食べ物を舌で迎えにいかないということ。
箸やフォークで取りあげた食べ物を、口のなかに運ぶ前に舌で迎えにいくことは「迎え舌」とも呼ばれて好ましくないのです。

syokuji_jyouhin舌を出す表情は、おどけている、相手に親近感を持っている、という思いからなることも考えられますが、相手を侮辱している、あるいは失敗したことをごまかしているという印象も与えかねません。
迎え舌になる理由は、お腹が空いてしまって少しでも早く食事をしたい、取り上げる一口の分量が多いなどが考えられます。

迎え舌をなさっている方も、気づくことができればすぐに解消できます。
是非、この機会に食事のさいの口元の動きを確認されてみてはいかがでしょうか。

荷物を置く場所

書店で本を手に取り、パラパラとページをめくって内容に目を通す。
洋服店で好みの色のセーターを見つけ、鏡の前で顔映りやサイズを確かめる。
このようなとき、自分の荷物をどこに置くことが好ましいのでしょうか。

荷物他の商品のうえに荷物を置かないようにとこころがけることは当然と思っていても、うっかり本や服など、別の商品のうえに置いてしまっていることがないとは限りません。
実際、本のうえに荷物を置く、あるいはお店で購入するかどうかわからない商品のうえに荷物を置いている光景を目にすることがあります。

あるいは、料理店において、スペースがあるからといって花が飾られている脇に、あるいは以前にも記したことがありますが食事をするテーブルのうえに荷物を置くことも避けたいものです。

単に物を置くということだけでなく、その場所を俯瞰し、状況を判断して行動する配慮を常に忘れないようにこころがけることが大切ではないかと思います。

お彼岸

昨年は春分の日でお彼岸にふれましたが、昨日20日からお彼岸に入りました。
お彼岸の期間は、秋分の日を中日とし、その前後3日間をそれぞれ含めた7日間です。
お彼岸は先祖や自然に感謝し、先祖の成仏を願って供養するわけですが、仏教では阿弥陀様がいらっしゃる極楽浄土は真西にあるとされています。

浄瑠璃寺先週、あるテレビ番組で京都府木津川市にある浄瑠璃寺を拝見しました。
浄瑠璃寺は平安時代の建物、池、仏像が残る唯一のお寺といわれているそうです。

浄瑠璃寺には、梵字の阿字をかたどった池が中心にあります。
その東には薬師仏。
西の本堂には国宝の九体の阿弥陀仏が安置されています。
ちなみに、池の東岸は此岸(しがん)と呼ばれる現世をあらわしているそうです。
さらにお彼岸の中日には、東にある三重塔から日が昇り、西の本堂の真裏に日が沈むということなのです。
まさに極楽浄土を体験できるのではないでしょうか。
いつの日か機会をみつけてお彼岸の中日に伺いたいと思います。

日頃はお墓参りに行く機会が少ないという方も、是非この週末はお墓参りにお出かけになり、ご先祖への感謝の念を大切になさってはいかがでしょう。

今を生きる

以前にも記したことがありますが、文化に関わる方々が各テーブルにわかれ、ともに食事をしながら、ひとつのテーマについて考える会へ久しぶりに出席させていただきました。

私たちは過去、今、未来、という時間軸のなかで生きていますが、今回は「今」をテーマに、同じテーブルにお座りの7名の方々と意見を交わしました。
7名のうち、イギリス、アイルランド、アメリカご出身の3名の外国人の方々もご一緒でした。

若いときには明日が当たり前にようにくるので、今と未来を分けてそれぞれを意識して生活することが少ないのではないか。
未来を意識しすぎてしまうと、今の自分の意志を諦める、あるいは我慢してしまうことがないだろうか。
年齢によって、過去、今、未来に対する考え方や感じ方に変化があるのではないだろうか。

おはな皆様の貴重な意見を伺いながら、「礼法では今についてどのように捉えているのか」という質問も頂戴し、次のようなことをお伝えいたしました。

礼法では相手のこころを察し、慎みを忘れずに行動することを重んじている。
それには、今だけでなく、自分の発言や行動によって、相手がどのように感じるのかという未来のこころを察することも求められる。
また過去の相手の反応や発言から、相手の感情や行動を理解し、予測することも必要であろう。
その予測と行動が自己流にならないように、作法というひとつの基準を用いて、
相手に不快感を与えないようにこころがけ、人間関係を円滑にする。
それこそが礼法が現代に至るまで受け継がれてきた意義なのではいないだろうか。

若い頃は、果てしなく未来が続いているように思えました。
しかし、現在は未来には時間的な限りがあることを知り、だからこそ今を生きていることに感謝しながら、日々を精一杯生きる大切さを実感しています。

過去よりも今のほうが未来へと続く具体的な目標や夢があります。
それらをひとつでも実現できるように、今を生きる大切さを改めて考える機会を頂戴したことに深く感謝いたします。

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